漆器を彩る蒔絵の魅力

漆器を彩る蒔絵の魅力について紹介します
金や銀の粉で、さまざまな絵柄を表す蒔絵。漆黒の器に描かれた蒔絵は、華やかで漆器の魅力のひとつでもあります。この精巧な絵柄を見て「どうやって描くんだろう?」と思ったことはありませんか。今回はそんな蒔絵の歴史、製法など、その魅力の一端に迫ってみましょう。

 

漆器の世界を大きく広げた蒔絵の歴史

蒔絵の技法は日本独自のもので、およそ1200年前から行われてきました。蒔絵の漆器は海外にも数多く輸出され、現在でも「Makie」と呼ばれ親しまれているそうです。まずは蒔絵1200年の歴史について紐解いてみます。

奈良に始まり平安に花開いた蒔絵文化

蒔絵のもとになったものは、奈良時代正倉院の唐大刀(金銀鈿荘唐大刀/きんぎんでんかざりのからたち)のさやにある「末金鏤 (まっきんる)」だといわれています。「末金鏤」とは、金粉に漆を混ぜて絵柄を描き、その後に透明な漆を塗って木炭で研ぎ出したもの。現代に伝わっている「研出蒔絵(とぎだしまきえ)」とほぼ同じ技法でつくられています。

その後、平安時代になるとさまざまな蒔絵の技法が誕生。貴族たちに好まれ、家具調度品として用いられるようになりました。さらには寺院の内装としても使われるようになり、描かれるものも松竹梅など日本風のものへと変化。京都・宇治にある平等院鳳凰堂や、岩手・平泉にある中尊寺金色堂などはその代表的なものといえるでしょう。

将軍家に抱えられた鎌倉〜安土・桃山時代の蒔絵師

鎌倉時代になると、蒔絵は武士にも愛されるようになり、鎧・兜なども漆塗り・蒔絵が施されるようになりました。

鎌倉時代には蒔絵の技術も向上し、現代に伝わる平蒔絵や高蒔絵、研出蒔絵といった技法ができたのもこの時代です。国宝である鶴岡八幡宮の籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがききくらでんまきえすずりばこ)、武器や神社で催事などに使われる神宝などにもこれらの技法が用いられるようになりました。

室町時代になると、足利家は蒔絵を施した多くの調度品を蒔絵師につくらせました。腕のよい蒔絵師は足利将軍の庇護を受けるようになり、華やかな調度品がつくられるようになったのもこの時代です。高蒔絵と研出蒔絵、それぞれの技術を合わせた豪華な肉合蒔絵(ししあいまきえ)なども生まれました。

このころの蒔絵や漆塗り職人には、現代とほぼ同じ程度の高い技術があったようです。安土桃山時代、豊富秀吉の正室おねが、秀吉の霊を祀るためにつくった京都「高台寺」にある蒔絵は、「高台寺蒔絵」としてあまりにも有名。秀吉夫妻が使ったとされる茶道具や箪笥などの調度品に施された蒔絵は、この時代の最高峰といわれています。

一般庶民に広がる江戸の蒔絵文化

江戸時代は、新しい蒔絵の図柄が次々に生まれた時代です。その背景として、裕福な町人・商人たちが蒔絵を施した漆塗りの調度品、アクセサリーなどを生活に取り入れたことがあげられます。当時の人々は、一風変わったものや新しいデザインなどを好み、それを身につけ、自らのセンスをアピールするようになりました。

江戸中期以降になると、町人・商人たちが蒔絵師たちの庇護者となったこともあり、蒔絵にギヤマンやべっこうなどを用いた今までにない芸術的な蒔絵もつくられました。当時の商人たちは、文化の一翼を担うといった気持ちがあったのかもしれません。

また、これらの蒔絵を施した漆器は、ヨーロッパなど海外にも輸出されるように。日本の独自技術である蒔絵は、ヨーロッパの人々にとって、珍しく美しいものとして人気を集めました。

蒔絵の製法・種類

一口に蒔絵といってもさまざまな技法があり、主なものとしては平蒔絵、研出蒔絵、高蒔絵などがあります。それぞれどんな技法なのか、またどんな特徴があるのか、探ってみましょう。

漆で描き、金粉で彩る蒔絵

漆の役目としては、木を補強し丈夫にすること、艶を出すこと、モノを接着させることなどが挙げられます。そのうち蒔絵は、漆の接着剤として役目を活用したもの。漆塗りの表面に漆で絵柄や文様を描き、漆が乾かないうちに接着剤として金・銀・錫など金属粉を付着させてつくります。

まず、色漆・透明漆を使って筆で絵を描き、少し漆が乾いたところで金属粉を蒔きます。漆で描いてすぐに蒔くと漆に粉が沈んでしまい、乾いてから蒔くと粉が接着しないなど、なかなかコツが必要です。蒔絵は立体的な絵柄が特徴でもあり、いくつも絵柄を重ねるため、蒔絵の完成だけで1カ月以上の時間がかかる作品も多いそう。

蒔絵職人たちの丁寧な手仕事によって、繊細で豪華な蒔絵がつくりだされているのです。

磨き方で異なる平蒔絵と研出蒔絵

平蒔絵と研出蒔絵の技法の大きな違いは、磨き方にあります。

平蒔絵は漆で描いた図柄・文様などの上に金属粉を蒔き、乾燥した後に透明漆を塗って磨いて仕上げたもの。蒔絵の中でも最も一般的な技法だといわれています。それに対し、研出蒔絵は金属粉を蒔いて文様・絵柄をつけた後に漆を塗って乾燥させ、下の蒔絵の絵柄の層まで木炭で研ぎ出す技法です。

2つの見分け方は、蒔絵部分が高くなっているか、それとも平たいかどうか。平蒔絵は下地よりも蒔絵部分が少しだけ高くなっており、研出蒔絵は下地と蒔絵部分が滑らかな同じ高さになっています。また、平蒔絵は蒔絵部分がはっきりと明るく現れているのに対し、研出蒔絵は淡い華やかさがあります。

蒔絵を浮き立たせる高蒔絵

高蒔絵は下地よりも蒔絵部分が高くなった蒔絵のことをいいます。

高く盛り上げる方法には、漆を塗り乾燥させた蒔絵部分にさらに漆を厚く塗った「漆上げ」や、蒔絵部分に炭の粉を蒔いて高くする「炭粉上げ」、蒔絵に錆漆を塗る「錆上げ」などがあります。さらに高蒔絵は高くした部分に、平蒔絵や研出蒔絵などを行いますので、高い技術とかなりの労力が必要とされます。

高蒔絵は、平蒔絵・研出蒔絵に比べ、多くの工程を経て作られており、蒔絵部分に厚みがあり立体的かつ遠近感があるのが特徴。きらびやかで重厚感がある高級な蒔絵技法といえます。

漆器に施すもう一つの細工「螺鈿(らでん)」

加飾とは、漆器の上に施されるさまざまな装飾技法のことを指します。もちろん蒔絵も加飾の代表的な技法のひとつ。もうひとつ加飾の代表的なものとして「螺鈿」があります。蒔絵と螺鈿について基礎的な知識があれば、漆器の世界がグッと広がりますよ。

七色のきらめきは貝殻の美しさ

螺鈿の特徴は、なんといっても七色にきらめく貝殻の美しさにあります。夜光貝、アワビ、白蝶貝などの貝類を材料とし、貝殻を散りばめて絵柄・文様などを表現します。

螺鈿が誕生したのは、一説によると紀元前3000年ごろのエジプト。日本には8〜9世紀ごろ中国から伝わり、平安時代に蒔絵とともに流行しました。

まるで宝石のような螺鈿の輝きは、貝殻の真珠層の部分を一枚ずつ薄い板状に切り出して丁寧に磨くことでつくられます。切り出した貝は透けて見えるほど薄いため扱いが難しく、職人の腕の見せどころです。その薄く板状にしたものを漆器に貼り付けると、鮮やかな螺鈿細工が完成。見る角度によって輝きを変える螺鈿は、多くの工芸品の中でもひときわ美しい装飾だという声もあります。

蒔絵と螺鈿がつくる華やかな漆器の世界

日本で蒔絵と螺鈿はどちらも奈良時代につくられはじめ、平安時代にその技術は確立しました。豪華で高級な蒔絵・螺鈿は、貴族や大名などに好まれ、両方の技術をもちいた調度品も数多くあります。

そのひとつとして挙げられるのが、国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」。江戸時代、画家でも工芸家でもあった尾形光琳の手による硯箱で、漆黒の下地に金の蒔絵を施し、さらにその上にカキツバタを表す螺鈿が施されているという洗練された逸品です。

蒔絵師たちは、このように蒔絵・螺鈿などの加飾を併用することで表現の幅を広げ、新しいものを生み出していきました。

漆器の上に職人が描く華やかな世界を楽しんで

1200年以上の歴史がある蒔絵や螺鈿の技術は、多くの職人たちの手を経て伝承されてきました。現在では工芸品として硯箱やお椀、かんざしなどに使われるだけでなく、ネックレスやブローチなどのアクセサリーにもその技術は使われています。

手間がかかるぶんだけ価格も高くなりがちな蒔絵や螺鈿の施された漆器ですが、きちんとしたお手入れで数十年使えることを思えば思ったよりも安いお買い物なのかもしれません。まずはお椀ひとつからでも、蒔絵・螺鈿の豪華な世界を楽しんでみませんか。

 

小鹿田焼とは。「世界一の民陶」と称された”日田の焼き物”特徴と歴史

「世界一の民陶」と称された大分県日田市にある小鹿田焼の里。小鹿田焼の特徴や歴史、製造方法などをまとめてみました。

 

小鹿田焼大分県日田)とは

大分県日田市の中心部から北へ17kmほどの自然豊かな山間で生まれたの小さな集落に「小鹿田焼」の里があります。小鹿田焼は、大分県日田市(ひたし)で300年間、受け継がれてきた伝統的な焼き物です。技術の伝承は、親から子へと受け継がれる一子相伝世襲制で、現在の窯元は開窯時からの流れを汲んだ10軒のみ。

他の産地では需要期を迎えた際に機械化が進んだが、小鹿田焼では、すぐ近くにある山の土を原料にし、川の力を借り、家族全員が参加しながら、すべての工程を手作業のみで行っています。焼き物の原料の土は川の流れを利用した唐臼(からうす)でくだき、ろくろは足で蹴って回します。窯は地元日田の薪を使って焼きます。

出来上がった焼き物は素朴な幾何学模様が特徴で、手にするとほっとする色味と風合いで温かみが感じられます。手に馴染む温かみや、暮らしに自然に溶け込む魅力があるのは、長く続いてきた歴史と伝統があるからではないでしょうか。

九州では小石原焼(福岡)や龍門司焼(鹿児島)に並ぶ歴史の長さを持ちますが、今も守る独特の継承システム・製法がこの焼き物を守り続けています。これらのことが昭和初期の思想家、柳宗悦により「世界一の民陶」と絶賛され、その名が全国に知れ渡りました。

川の水を利用し、ししおどしの原理で陶土を打ち砕く唐臼(からうす)の音は、川のせせらぎとあいまって小さな集落に響き渡ります。その視覚と聴覚への刺激は、心の奥深くまでしみ渡る感覚です。その風景は『残したい日本の音風景100選』に選ばれ、皿山・池ノ鶴地区を含む小鹿田焼の里」の景観は国の重要文化的景観にも選定されています。

日田・焼き物、小鹿田焼の歴史

小鹿田焼のルーツは九州の陶芸の発展の歴史と関係しています。

小鹿田焼の兄弟窯と言われる小石原焼は、1682年に筑前福岡藩・3代目藩主が磁器の生産が盛んだった伊万里にならい、焼き物を作り始めたのが起源とされています。1669年から同地で茶陶を手がけていた高取焼との交流により発展し陶器が作られるようになりました。

時期を経ず、宝永2年(1705年)に小石原村 (現在の福岡県朝倉郡東峰村) から小石原焼の陶工、柳瀬三右衛門を招き、小鹿田皿山 (現在の大分県日田市)に登り窯を築造したことが小鹿田焼のはじまりと言われています。

当時繁栄していた江戸幕府直轄領、日田の代官の命により、領内の日用的陶器の需要をまかなうのが主な目的でした。いずれにしても小石原焼と兄弟窯と言われてる所以はここにあります。招いたのが黒木氏、土地を貸したのが坂本氏、柳瀬氏と三家をルーツとして今でも一子相伝を継続しています。

小鹿田焼が脚光をあびるきっかけとなった理由、民藝運動

今では伝統的な民陶として日本全国に知られている小鹿田焼。小鹿田の皿山地区は、明治以降、農業ができない時期に窯業を扱う半農半陶(はんのうはんとう)で生計を立ていましたが、これは民藝運動のころまで続きました。大分県の山間でひっそりと作られていた陶芸品が、脚光を浴びるきっかけとなったのが大正時代に始まった民藝運動です。

無名の職人の手によるものづくりの中に美しさを見出す民藝運動には、陶芸家の河井寛次郎濱田庄司らが参加。そのなかでも中心人物であった柳宗悦は、自身の著書『日田の皿山』(1931年) で「世界一の民陶」と小鹿田焼を称賛し、世の中へ認知が高まるきっかけとなりました。

同じく運動に加わっていたイギリス人の著名な陶芸家バーナード・リーチは小鹿田の皿山地区を訪れ、約一月近く滞在しました。製作活動にいそしむとともに、小鹿田焼の職人たちにピッチャーのハンドル付けなどの陶芸技術や、陶芸を生業するための心構え伝えていきました。このころの民藝運動のうねりの中で、小鹿田焼の名は全国へ広まっていきました。

1970年3月に国の無形文化財として指定を受けたことも、さらに知名度を上げるきっかけとなりました。1975年ころにはすべての窯元が専業化し、現在も生活の道具としての工芸品を製作し続けています。
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小鹿田焼の特徴(ブランドの共同体・飛び鉋など)

産地全体や数点の特徴を記載してみたいと思います。

特徴1、小鹿田焼のブランド共同体

一子相伝ということは前述しましたが、外部から職人を雇わず全ての作業工程を家族が担っていることも大きな特徴です。さらに、窯元は作品に個人名を入れたりせず、基本的に価格差をつけず、小鹿田焼のブランドを共同体となって守っています。

製造工程は全て家族の労働によってまかなわれています。土練り、ろくろ挽き、窯炊きなど力と、技を要する作業は主に男性が担います。窯元の家族は老若男女一体となり仕事を分担し役割を担っていきます。機械を使わない、職人を雇用しない、弟子をとらないといった手法、しきたりが守られ続けています。

家族だけでなく、他の窯元に不測の事態があっても産地全体で補いあうという習慣が継続されています。厳しい自然環境のなかで伝統を守りつつ生産を絶やさないことがアイデンティティーを確立させ、産地をひとつの連合帯と見いだせる所以かもしません。

 

特徴2、3つの技法「飛び鉋 (かんな) 」「刷毛目(はけめ)」「流しかけ」

小鹿田焼の器の特徴は「飛び鉋(とびかんな)」や「刷毛目(はけめ)」「流し掛け(ながしかけ)」など蹴ろくろを回しながら、美しい模様をつけていく装飾技法です。

装飾技法の特徴を少しご紹介いたします。

・飛び鉋 (とびかんな)
型作りした器に、ろくろを回しながらL字型鉋(かんな)をあて表面を削り模様をつけていきます。横で見ているとあっという間に図柄が出来上がりますので驚きます。この技法は中国・北宋時代の陶器に見られ、昭和初頭にかけて日本でも取り入れられました。


・刷毛目 (はけめ)
ろくろを回しながら、化粧土をつけた刷毛を小刻みに打ちつけて模様をつけます。朝鮮・李朝より伝わった技法。


・流しかけ
スポイトなどに化粧土や釉薬を入れ、一定の高さから垂れ流すようにかけて模様をつける方法

技法を一人前にできるようになるまでに、10年の修行が必要とのことです。難しい蹴ろくろを扱いながら、あっという間に装飾してしまうのを見ると職人の高い技量がうかがえます。

かつては、生活雑器を焼く産地ではありませんでしたが、人々のライフスタイルや社会の変化に伴い、供給する品も変わっていきました。そして現在のような食生活に合う食器がスタンダートなっています。


特徴3、300年一子相伝で守られる技法

小鹿田焼の技術の伝承は、親から子へと受け継がれる「一子相伝(いっしそうでん)」の伝統を守りつづけています。どのような技法が受け継がれているのでしょうか。

自給自足の土と釉薬

小鹿田焼の原土(陶土)は、すべて集落周辺の山からの調達です。小鹿田皿山は、集落全体の地質が厚い陶土層で形成されていて、表土を少し掘り下げれば陶土を掘り出すころが可能です。まずこれが焼き物の原料となります。

現在窯元の共同作業は、年2回の土堀だけです。採掘された原土は等分に分けられ、以降は各窯元の作業に委ねられます。

び出された土は、機械を使うことなく、集落を流れる川の力を動力にして唐臼(からうす、以下写真)で動かします。唐臼で動かし20~30日ほどかけてパウダー状になった土は、次の工程に移ります。

ゴミを取り除くために水簸(すいひ・写真下)で泥水をふるいで何回もこし、水抜きをして天日で乾燥させて陶土にしていきます。これらすべての工程を手作業のみで行っていきます。

釉薬の原料である灰も自然の植物灰にこだわり地元のものを自家生産しています。地元の素材をこれだけこだわって活用している産地は珍しいです。


蹴ろくろでの成型

今では少なくなった足で蹴ってまわす、蹴ろくろを使い、昔と変わらない技法で作られています。電動ろくろより扱いが難しく、上半身と下半身のリズムを合わせ、土の様子をみながら成型していく高い技術が求められます。

 


登り窯(のぼりがま)による焼き

小鹿田焼は「登り窯(のぼりがま)」と呼ばれる階段式の窯で焼かれます。小鹿田皿山では現在10軒の窯元のうち5軒が共同窯、残りの 5軒が個人窯を使用しています。

集落の中央にある八袋の登り窯の共同登窯には下部にある火口窯(燃焼室)と八つの袋(燃焼室)があります。最下部の焚口から順次焚き上げていき、徐々に上の段の袋に上がっていく構造です。

1番目の袋が約1250度に到達後、2番目から最後の袋まで焚き上げます。火が入るのは約2か月に一度程度。一旦窯に火を入れると窯元のみなさんは約3日交代で窯の火の番をすることになります。


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何度か伺った、窯元の1つの小袋さんは共同窯ではなく専用窯が家の敷地内にあります。家族で交代しながら24時間体制で10分おきに薪を入れ火の調整をしていくそうです。薪を入れていく作業では、窯の温度を見ながら薪の燃え具合や気候の変化を感じながら調整していきます。

・ 「薪の大きさも1つ1つ違うので温度が上がる速度も変わる、体験して覚えていくしかないのです」
・ 「窯には奥と手前とあり、温度のバランスをとるのが難しいです。奥の温度が先に上がると、全部そちらに炎が行くので手前の温度が上がらなくなってしまいます」
・ 「温度の上がる過程では窯自体のレンガの収縮もあり、それによって火の通り道がいつもと違ったりします」

このようにマニュアルにはし切れない作業の連続で、ものづくりには長い経験値が必要なことを感じさせます。

 

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小鹿田焼と小石原焼との違いは?

兄弟窯呼ばれる小石原焼と小鹿田焼。2つの民陶にはどのような違いがあるのでしょうか?

1つの大きな違いは原料として使われる土です。小鹿田焼に使われる土の方が、小石原焼の土よりも黒みがあると言われています。両産地の技法である「飛び鉋(とびかんな)」で比較すると、小鹿田焼の方がより鋭角な切り込みを入れることができ、白い焼き面に施される紋様がより際立っています。

小鹿田焼の陶土の特徴は、きめ細かくコシが強く、粘りもあるが、伸ばしにくい難点があると言われています(以下、写真)。きめが細かく、収縮率も大きい為、割れやすく成形の際に土を締めにくく、底部が割れやすい性質があります。
壺、大皿とも割れることへの対策から底部が小さく作られるうえ、耐火度が弱いため、焼成時にへたりやすくのです。そのため鉢と言えるような深い傾斜の焼き物が出来上がる傾向にあります。このことは、江戸期から現代の品にまで共通した特徴であり、兄弟窯である小石原焼の物と区別する際の目安と言えます。


小石原焼とは?

小鹿田焼のルーツでもあり、兄弟窯と呼ばれているのが小石原焼(こいしわらやき)です。小鹿田焼よりも少し早い時期に開窯し、約350年間続いてきました。現在の窯元は50以上。

小鹿田焼と同じく「トビカンナ」や「ハケメ」などの伝統技術は守りながらも、より現代の食生活に合うデザインを取り入れているのが特徴です。窯元ごとに独自の思いでつくり出されているのが小石原焼であり広がりを見せています。

昭和の初期までは、共同の登り窯で大型の鉢や皿や甕、すり鉢などの製作をしていました。バーナード・リーチ柳宗悦民藝運動の中心者が来た際、絶賛したことで脚光を浴びました。この点は小鹿田焼とほぼ同じ道筋を辿っています。

民藝ブームから小石原焼を求めに村へ訪れる人も増え、世襲制だった窯が、人材を集めはじめました。需要が増えたことで出荷量も増え、窯元が50以上に増え、伝統技法が現在に引き継がれているという背景があります。この発展の経緯は小鹿田焼と異なる点です。

小鹿田焼の里」に訪れる水害を乗越えた陶器市の今

自然とともに歩み続け、今でも変わらぬ工法を継続している小鹿田焼ですが、継続できる背景には自然との共存するがゆえの課題もあります。

小鹿田焼の里に定期的に訪れる水害

2016,17年に九州北部地方を襲った豪雨で、甚大な被害を受けた現実があります。唐臼(からうす)が数基流され、陶土の採掘も厳しい状況にあったようです。一時は濁流のため交通も遮断され動きが取れないほどの状況となりました。

その後、しばらくしてある窯元さんを訪れた際に聞いたコメントです。
「九州北部豪雨の際は大量の土砂が流れ込み、山から水がこなくなったり、唐臼(からうす)が壊れてしまったりと大変でした、、自然の恵みを受けて作っていますから仕方がないです、、

対策を立て適応している姿に力強さを感じました。長く続いてきた歴史と機械を使わず手作りの伝統を守り続ける道を選んだ窯元の皆さんは助け合い、励ましあい、自然を受入れ、長い歴史のひとつとして、乗り切っていくのだと思います。

そして今でも変わらず小鹿田焼の製作が行われています。

陶器市、小鹿田焼民陶祭

小鹿田焼と小石原焼の魅力を最大限に楽しむならやはり現地を訪れるのがいいでしょう。NHKはじめテレビ局の多くが秘境の産地と特集を組む理由を体感することができるはずです。
他の産地にはない、陶芸の里の素朴さと力強さの雰囲気を肌で感じることができます。特に陶器市では、すべての窯元さんが陶器を直接販売されています。

小鹿田焼民陶祭は、大分県日田市源栄町皿山の「小鹿田焼の里」で毎年10月第2週に行われています。

開催の理由は自然とともに歩むこの地の根底にある考えに基づいています。それは一年間働いた窯に感謝し、道祖神への祈りを込めたお祭りです。そして窯元たちが小鹿田焼の今後の発展と伝統を守り続けることを誓うためのものでもあります。

開催期間はこの日のために焼いた作品を工房や軒先などにぎっしりと並べられ、お客様を出迎えます。大分や別府、福岡、佐賀、さらには東京や大阪など遠方から来る小鹿田焼ファンに楽しんでもらう場になっています。

 

小鹿田焼、”小鹿田の里”の場所

小鹿田の里は日田市から北へ17キロ。大分県日田市源栄町皿山。日田市街から小野川の清流に沿って小野地区の田園地帯を約10キロ登りつめると小鹿田の皿山があり、峠を越えて西へ約2キロのところに小鹿田の集落はあります。標高400m強。

日田耶馬溪英彦山固定公園の南西部の一角です。地理的には北部九州のほぼ中央にあり、兄弟窯の小石原焼へは北西へ25キロ程度あり車でないとアプローチが難しいでしょう。

小鹿田焼陶芸館のご紹介小鹿田焼の保存と伝承を目的とし、平成24年に全面的リニューアルされました。小鹿田焼の手法や作品の歴史などを知ることができます。小鹿田焼の里で、小鹿田焼の素晴らしさをぜひ満喫してみてください。

【ご案内】
開館時間:午前9時から午後5時
休館:水曜日、年末年始
住所:日日田市大字鶴河内(源栄町)138番1
URL:こちらから詳細をご確認ください。

 

スタッフが語る、”小鹿田の里の歩き方”

日本工芸堂スタッフが商談や取材で何度か小鹿田の里に訪れた経験から、”小鹿田の歩き方”をご説明してみたいと思います。時間軸で記載してみますので訪れる際のご参考にしてみてください。

  • おそらく、小鹿田焼の里には車で到着することになると思います。まず、道なりに登り切った先に上記の看板があります。
  • そのすぐ先が小鹿田焼陶芸館です。
  • 最初に訪れた際はこちらに行って小鹿田焼きの歴史や製造方法の説明を学んでみましょう。全体感を掴むことができます。
  • 一通り小鹿田焼につて理解が深まったら、少し休んで歩き出しましょう。ゆっくり歩いてくだっていきましょう。
  • そうすると両サイドに登り窯や製作工房、唐臼が見えてくるはずです。
  • ほぼ全ての窯元さんに売店があります。そこでこだわり点や特徴を聞きながらさらに理解を深めてみましょう。ただし、許可のない工房などへの立ち入りや製作を止めるよな行動は慎みましょう。
  • 窯ごとの違いを見比べてお皿や花瓶、コップなど、小鹿田焼を選んでみましょう。
  • 大きさ・色味が多少異なるという理由で販路に出なかった品、掘り出し物が見つかるかもしれません。
    • 帰路にきっと後悔しますので、いいなと思ったら迷わず購入です!
  • 焼き物選びとともにそこに流れる風や空気、自然の風景を十分楽しみましょう、忘れられない思い出になるはずです。そしてまたきっと訪れたくなる場所になることでしょう!

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九州のその他の工芸品

九州には小鹿田焼の他に様々な工芸品の産地が存在しています。いくつかの伝統工芸品をご紹介いたします。

佐賀県の伝統工芸品、有田焼

佐賀県有田町で脈々と受け継がれてきたこの焼き物は、発祥から400年以上経つ日本の伝統工芸品の一つです。磁器らしく透き通るような白い素地を持ち、様式によっては鮮やかな絵付けが魅力で、洗練された雰囲気を持っています。豊かな自然に囲まれた土地から国内外へと広く愛されてきた伝統の美は、私たちの心を惹きつけてならない品々を産み出しています。
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鹿児島県の伝統工芸品、薩摩切子

「切子」と言われて頭に浮かぶのは「江戸切子」と「薩摩切子」ではないでしょうか。1mm以下の薄い色ガラスを被せ、鋭角にカットを施す江戸切子に比べ、薩摩切子は2~3mmの厚い色ガラスを被せ、緩やかな角度でカットするのが特徴です。

そのため透明なガラスと色ガラスの境目には、美しいグラデーション(ぼかし)が表れます。その芸術性の高さ故に、海外への輸出品や大名への贈答品として使われた薩摩切子。江戸幕府第13代将軍徳川家定に嫁いだ、天璋院篤姫も嫁入り道具の1つとして携えていたといわれています。
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佐賀県の伝統工芸品、肥前びいどろ

佐賀県重要無形文化財に指定されている「肥前びーどろ」は、江戸時代末期頃に作られ始めました。佐賀ガラスと呼ばれていましたが、昭和期に肥前びーどろの名で販売したものが定着したといわれています。型を使わず、人の息を吹き込んで作られる宙吹きガラスは、なめらかな艶と柔らかい曲線が特徴です。

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佐賀県の伝統工芸品、肥前吉田焼

佐賀・長崎にまたがる地域は「肥前」と呼ばれ、現在も多くの窯元が残る陶磁器の産地です。肥前吉田焼は有田焼の大外山エリアの吉田村を流れる羽口川の上流、鳴谷川の川底で、白く光る石を発見した(1577年)ことに起因しています。

現在の佐賀県嬉野市の吉田にある小さなエリア。この地域は、江戸時代には宿場町として栄えた嬉野温泉という温泉地があり、名物の嬉野茶は歴史が古く、肥前吉田焼の茶器や急須と一緒に楽しむ観光客も多いです。

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大分県の伝統工芸品、別府竹細工

湯けむりただよう、日本有数の温泉地、大分県別府市。この別府市周辺に伝わる「別府竹細工」は、古くは『日本書紀』にも登場する、長い伝統を持った工芸技術です。温泉街を歩くと、小さな竹細工専門店が、今も点在し、籠やザルのほか、箸、しゃもじ、などの生活雑貨が売られています。何気ない一品の中に潜む、高度な技術は、使いやすいだけでなく、長く使い続けられる実用性の高い道具、まさに工芸品です。

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日本の漆器の特徴と産地ごとの違い

漆器といえば、輪島塗を思い浮かべる人が多いようですが、日本国内には輪島塗以外にも多くの漆器の産地があります。例えば蒔絵で有名な金沢漆器、何重にも塗り重ねた馬鹿塗で知られる津軽塗、軽くて丈夫な山中漆器・・・。それぞれの地域の中で育まれてきた漆器ばかりです。今回はその漆器の産地とその歴史、それぞれの違いなどについてご紹介しましょう。

伝統的工芸品に指定されている漆器の産地

伝統的工芸品」とは定められた5つの項目をすべて満たし、伝統的工芸品産業の振興に関する法律に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品のこと。

この「伝統的工芸品」に指定されている漆器は、現在のところ全国で23カ所。伝統的工芸品に指定されていない漆器も含めると、その数はさらに増えます。

漆と漆器の産地の関係
そもそも漆とは、漆の木から採った樹液のこと。これを生漆(きうるし)といい、そのまま使ったり、精製して使ったりしています。日本に深く根付いている漆ですが、実は中国からやってきた在来種。日本の気候にはあまり馴染まないため、人が手入れをする必要がありました。

日本最古の漆器縄文時代のものといわれ、岩手県から出土。以来、日本ではなんらかの形で漆の木の手入れをしていた可能性が高いとされています。さらに中世になると、岩手県岩手県二戸市浄法寺町で、浄法寺塗がつくられるように。漆を採取し、木地をつくり、漆を塗るという漆器づくりがすべて地元で行われていたことがうかがえます。

史実としては追えませんが、もし岩手で縄文時代から漆が育てられていたとすると、その歴史は2000年以上。浄法寺町は今でも漆掻き職人が多く、国内の漆の生産量の7割が岩手県で生産されています。

漆器づくりに適した日本
江戸時代になると殖産興業のひとつとして、漆器作りが多くの藩で奨励されたため全国に広がっていきました。

漆器をつくるには良質の木材が近隣から取れること、湿度が高いこと(漆器づくりに適した湿度は80%)などが大切なことから、漆器の産地の多くは山に囲まれ湿度が高いところ、盆地などが多くなっています。盆地でつくられる漆器としては、越前漆器や山中漆器会津塗、木曽漆器などが有名です。

日本は山が多く、湿度が高いのが気候の特徴。もともと漆器づくりに適した気候だったといえるでしょう。

伝統的工芸品に指定されている漆器の産地
現在、伝統的工芸品に指定されている漆器の産地は下記の通りです。それでは北から・・・。

津軽塗青森県
秀衡塗、浄法寺地塗(岩手県
鳴子塗(宮城県
川連漆器秋田県
会津塗(福島県
鎌倉彫、小田原漆器(神奈川県)
村上木彫堆朱(新潟県
新潟漆器新潟県
高岡漆器富山県
輪島塗、山中漆器、金沢漆器(石川県)
若狭塗(福井県
木曽漆器(長野県)
飛騨春慶(岐阜県
漆器(京都)
紀州漆器和歌山県
大内塗(山口県
香川漆器香川県
琉球漆器沖縄県
それぞれ、作り方や漆の塗り方など、独自の技術を持ち、特徴のある製品を作っています。

 

漆器で栄えた石川県の産地


輪島塗を生み出した石川県。伝統的工芸品にも3つの漆器が指定されるなど、日本でも有数の漆器の産地であることがわかりますね。ここでは、石川県で漆器がつくられた理由と、それぞれの漆器の特徴をみてみましょう。

石川県で漆器が盛んに作られた理由
石川県ではもともと、ケヤキアスナロなど木地に向いた木が多く、鎌倉時代から漆器がつくられていたといわれています。その漆器文化が大きく花開いたのは江戸時代。大藩である加賀藩のもと、輪島塗や金沢漆器が庇護されたことがあげられます。輪島塗は丈夫で美しいこと、金沢漆器は金蒔絵の美しさから人気を集めました。

次に、加賀が北前船の寄港地であったことも理由としてあげられます。塗師屋が自ら全国に漆器を売り歩きやすく、顧客をつくっていきました。大名だけではなく庶民にも買いやすいよう工夫を凝らしたりもしていたようです。

また、石川の3つの漆器の産地では、生産が分業制で行われていたため、効率よく漆器が生産できていました。木地、漆塗り、加飾それぞれの工程で担当する職人や工房が分かれ、それぞれに技術を発達させていきました。

○木地の山中「山中漆器

山中漆器は、石川県加賀市の山深い山中温泉地区で生産されています。安土桃山時代では湯治客へのみやげものとされてきましたが、江戸中頃からは外部から塗りや蒔絵の技術を学び、茶道具をメインにつくっていました。

山中漆器の特徴は、木地を挽く技術が優れていること。丸いお椀や自然な木目の美しさが目をひきます。「木地の山中」ともよばれ、分業の工房のなかでは木地屋が最も多い産地でもあります。技法としては、縦木取・加飾挽き・うすびきがあり、それぞれの木地屋が競うように高度な模様をほどこすようになりました。


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○塗りの輪島「輪島塗」
輪島塗は、能登半島の真ん中あたりの輪島市でつくられる漆器。日本でも塗りというと、輪島を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。最古の輪島塗は室町時代のもので、石川県にある3つの漆器の中で最も歴史ある漆器の産地です。

輪島塗はなんといっても丈夫で美しいのが特徴。「地の粉」と呼ばれる珪藻土を細かく砕き粉にしたものを下地に混ぜ込むことで、丈夫な漆器となります。工程としては、木地づくり・漆塗り・加飾の3つがあり、そのうち漆塗りには、下地をつくるだけで20以上の工程があるものもあります。

○蒔絵の金沢「金沢漆器
蒔絵の華やかさでは随一の金沢漆器。加賀・前田藩のお膝元である金沢市でつくられています。江戸時代、加賀藩3代当主が高台寺蒔絵の巨匠を招いたことからスタート。平蒔絵、研出蒔絵、高蒔絵、肉合研出蒔絵など、現代に伝わる蒔絵が当時から行われていました。

金沢漆器では蒔絵師、鞘師、靭師、塗師の4つの分業制。よその産地ではあまり見られない珍しい職人の名前から、鞘や矢をいれる靭などにも蒔絵を施していたことがわかります。武具として、食器として、日用品として、金沢漆器は発展していきました。

 

多彩な特徴を持つその他の産地


日本各地でつくられる漆器は、その地域で採れる木や職人のこだわり、庇護者の好みなどによりそれぞれ特徴があることはすでに記しました。ここでは越前漆器、小田原漆器、高岡漆器の特徴、歴史などについて触れてみます。

○堅牢な越前漆器

越前漆器はものづくりの街として知られる、福井県鯖江市を中心につくられている漆器です。その歴史は古く、一説によると1500年も前の大和・飛鳥時代のこと。また、漆の木から漆の樹液を採取する漆掻きも多かったようです。

木地づくり、塗り、加飾がそれぞれ分業制で行われており、それぞれの専門性が高く、堅牢で美しい越前漆器を生むこととなりました。蒔絵や沈金の技法も伝わり、明治になるとお椀など丸いものだけでなく、お膳などいろいろな製品にもチャレンジ。現在では、合成樹脂などを用いた器づくりにも取り組み、外食産業の食器の8割が越前漆器というデータもあります。


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○実用性が高い小田原漆器

小田原漆器は、神奈川県の西部・小田原市でつくられている漆器です。小田原市は、戦国時代は北条氏、江戸時代に入ってからは宿場町として有名で、小田原漆器も北条氏との縁があります。もともと箱根周辺の豊かな森林資源をもとに器をつくっていたことに北条氏が目をつけ、漆器職人を招いたことが小田原漆器のはじまりでした。

ろくろで削った木地に漆を塗っていく小田原漆器ならではの技法のほか、摺り漆塗りなどが行われ、艶やかな木目が特徴です。木地には国産のケヤキを使った堅牢でゆがみが少なく実用性のある漆器で、長く使うことができます。


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○美を追求した高岡漆器

高岡漆器は、富山湾より少し奥に入った高岡市で作られています。江戸時代初期、加賀藩2代藩主前田利長高岡城を築いたとき、塗りの日用品をつくらせたのがはじまりといわれています。

貝殻の光沢が美しい青貝をもちいた青貝塗、中国・明の漆器の作り方を研究した結果生まれた勇輔塗、彫刻の上に漆を塗り、さらに彫刻を施す彫刻塗など3つの技法で有名です。町民文化に根付いた漆器で、高岡の祭り「高山御車山祭」では御車山にその技術を見ることができます。


>「高岡漆器」について詳しく見る

 

産地の違いを感じて、毎日使う漆器を選んでみては?


日本各地にある漆器の産地では、歴史はもちろん、素材となる木、漆の塗り方、装飾の施し方などそれぞれに特徴があります。毎日の食事に使えるものから、結婚式などハレの日に用いるものなどいろいろな漆器があり、日々異なる漆器を楽しむことができます。

自分の好みやそのときの気分・料理、使う場面などから、毎日違う漆器を選ぶと、食卓がもっと豊かなものになりますよ。